おきなわデータ算歩 庶民のけーざいデータ100

●おきなわデータ算歩 庶民のけーざいデータ100
伊波貢著 沖縄タイムス社刊 定価1400円(税別)

 沖縄って何だろう。
 沖縄ってどういうところだろう。
 私たち沖縄に住む者は、どのような思考・嗜好をしているのだろう。
 私たち沖縄の人間って、どのような生活をしているのだろう。

 こんなことを考えたことはありませんか。
 つきつめていけば、ウチナーンチュはどこから来たのかという命題にもつながるのだが、沖縄っていう場所(地域)は、いつも、そのような問いかけをしているし、問いかけられているような気がする。 全国的にみて盛んだと評価されている県産本にしたって、自分たちへの問いかけから出版している例も多いと思う。しかし、画一的な見方はできないのは確か。自分たちの中にある沖縄を見つめていくことが必要なのだろうと思う。でも、沖縄を理解し、考えていくことの材料として、統計資料があることに気がついた。本書を読んで気がついたといってもいい。

 この本の中には、私たち沖縄人(おきなわびとって読んでね)の生活が溢れている。私たちの生活が詰まっているといってもいいかもしれない。
 本書は、本の顔である表紙からして面白い。まず帯なのだ。帯文を読むと、『沖縄人は、全国一、かつお節・豚肉・缶詰・粉ミルクを食し、ボウリング・ティシュペーパー・マラソン・飲食店を愛するが—-全国一、アイスクリーム・ビール・漬物・冷凍食品を食さず、自転車・年賀状そして特にストレスを好まない県民性である』と書かれている。

 そうでしょう。納得するのじゃありませんか? この帯文を読むだけで、沖縄人の性格が見えてくるでしょう? そうだ、そうだと肯く自分があるのじゃないですか? そして、更に裏の帯文には、『県内初の証券アナリスト伊波貢がわかりやすく解説したウチナーンチュの生活』と大きく打たれている。そうかぁ、証券アナリストかぁ。アナリストってよくわからんけど、ちゃんとしているんだと思ってしまうでしょう?思わず、帯文だけで、長々と書いてしまったが、本書は、帯も出色のできなのだ。当たり前だけど、本文も面白いぞぉ!

 本来、統計というのは、官公庁が発表するもので、きちんとした裏付けがなければならない。そのため、数字の掲示だけに止まってしまい、無味乾燥のものになっている場合が多いように思う。本書は、そのような数ある統計資料の中から、著者の伊波氏が抜き取って解説を付けている。また、実際に沖縄に住んでいる伊波氏ならではの視点があるために、本当の沖縄人の姿を映し出しているような気がするのだ。数字は冷酷な一面を持っているが、伊波さんのような専門家(多分そうだと思う)の手にかかると(いや、「頭の中で咀嚼されると」、と表現するのが本当かな)、かくも面白いものに変化していくものなのだ。

 ここで、本書の内容を紹介するつもりはない。だって、伊波さんの文章、解析が私の紹介より、何倍も面白いのだから。本書の中には、沖縄の本当の姿がある。自分たちの意識している沖縄があるし、何気なく購入していること、やっていることが、統計という数字で表現されている。さあ、衣食住から教育、産業、交通、自然、金融までさまざまな沖縄の姿をみてみようではありませんか。意外な数字、やっぱりなぁという数字、たくさんの数字から、沖縄が客観的な姿を現してくる(はず)。沖縄を、伊波さんと一緒に算歩してみよう。ネタ本としても最高だと思うよ。

 ちなみに私は、ヤマトの友だちにお土産として持って行きました。
(06年10月4日)

花ごよみ 亜熱帯沖縄の花

●花ごよみ 亜熱帯沖縄の花
アクアコーラル企画編集部編 アクアコーラル企画刊 定価2800円(税別)

 以前から植物には興味があった。しかし名前がわからず、ただ愛でるだけだった。図鑑や植物園などへ行って、学習しようと思ったこともあったが、あまり効果がなくて諦めたこともある。人に限らず、植物の名前を覚えきれない自分に腹がたった。でも、言い訳めいたことを書かせてもらえば、植物って同じような形なのに違う名前だったり、花の咲く季節が違うことで名前が違ったり、もう大変なのだ。本当にたくさんの植物や花を見て(それも漫然と見るのではなくて、ちゃんと観察しなければならないのだ)、経験を重ねないといけない、らしいと気づいたのは最近のこと。そのように達観してからは、印象に残る植物・花を覚えるようにした。
 また、植物図鑑をめくってみることもあったが、ヤマトと沖縄の植物体系は違うので参考にならないし、県産本にはあまり植物関連のものはない。あったとしても、写真が小さかったり、全体像だけで大事な花や葉の部分が見えにくかったりと、これも私には参考になりにくかった(もちろん私の勉強不足で、しっかりとした植物図鑑は発行されていると思います)。ということで、植物には興味があるが、名前がわかるものは少数。その他はなんだか曖昧かついい加減に覚えているフリをして過ごしていた。

 そんなとき、1冊の本に出会った。それが本書。

 私にとって本書が有り難かったのは、全面的に花の写真をアップで撮っていること。じゃあ、花が咲かない時季は名前がわからないじゃいかと言われそうだが、私のような、気ままな花愛で男は、花が咲く時季にしか目がいかないから、かえって重宝なのである。あっ、この花だぁ。だあ、なんて名前かねぇ。なんて思ったとき、花の形や香りなどを頭に刻みこんで、本書をめくる。『今は何月だからぁ』などと鼻歌まじりにめくる。おおぉっ、貴殿(貴女)はこのような名前だったのかぁ、と記憶の引き出しに入れる。

 さりげなく書いたが、本書の特徴のもうひとつ。そうなんです。花の咲く月・時季に合わせて掲載されているのですねぇ。例えば、今は9月なので、そのページを開くと、まず目に飛び込んでくるのが『ウナズキヒメフヨウ』と『トックリキワタ』。そうだなぁ。今、あちこちで見かけるよなぁ。などと悦に入ることができる。なおかつ、そろそろ次はどんな花が咲くかなぁ、などと思いつき、10月のページを開くと、『ホシソケイ』『コバノセンナ』と、あまり知らない花が掲載されるが、次の『バルレリア』で、あぁ、見たことある! そっかぁ、『バルレリア』っていうんだ。などと、一人遊びができるようになっている。

 また、面白いページもある。最初に掲載されている「色で探す花目次」がそれ。今の季節ではなく、思い出したい、もしくは教えてあげたい花があったら、このページをめくればいいのだ。白色系から始まって、黄色系、オレンジ系、赤色系、ピンク・赤紫系、むらさき系と連なっている。もちろん、具体的な説明は本文に掲載されている。

ねっ便利でしょう。もちろん、索引も付いているので、花の名前から検索することもできる。花の色、花の差宇季節、花の名前、3種類から確かめることのできる植物の本。突然、花の綺麗さや可憐さに惑溺してしまったとき、または、正しい花の名前を連呼したくなったとき、本書が手元にあるといいですよぉ。そして、記憶力の衰えてきた中年男は、次の季節になると、またまた「なんて花の名前かなぁ。確かに調べたんだけどなぁ」などと呟きながら、この本を来年もまためくっていることでしょう。
(06年9月25日)

沖縄の庭を見直そう 琉球ガーデンBOOK

●沖縄の庭を見直そう 琉球ガーデンBOOK
比嘉淳子/文 飯塚みどり/写真 ボーダーインク刊 定価1600円(税別)

 身近な自然、それが庭。考えてみると、土の地面を踏みながら歩くことが少なくなった。いや、土を見ること自体が少なくなったのではないだろうか。

 私は那覇から糸満まで通っているが、道中はずっとアスファルトで舗装されている。もちろん、那覇から糸満までは南風原、東風平、糸満の農村地帯を通るので、畑を見ることはあるが、未舗装の道路が少なくなった。話は変わるが、先日、サトウキビ畑の写真を撮りに行ったが、ファインダーを覗くのに夢中になりすぎて、2メートルくらいの段差を転げ落ちてしまった。下は何も植えられていない畑だったので助かったが、これがコンクリートかアスファルトだったらヘラヘラと笑って帰ってこれなかったにちがいない。土っていいもんです。但し、むき出しになった土はいけません。やはり、その上に緑がないと、興趣が削がれるっていうもんですよね。などと、無理矢理、土や緑の良さに結びつけたようだけど、自然って、やっぱり大切なもの。私たちの目を楽しませてくれるし、心を潤してくれる。

 それが、本書を読み、鑑賞し、勉強すれば、自然の大切さを知ることが倍増すること間違いない。私などは、小さなマンション住まいなので、この本に掲載されている樹木を鉢植えにして、ベランダに置きたいと思ったほどだ。このように紹介すると、本書は単なる庭に植える樹木を中心にした実用書のようだが、実は違う。

 それには、著者の『はじめに』の言葉を引用してみるのが良いだろう。

(略)私の心の中に広がる沖縄の風景は、ハブの抜け殻(……とってもきれいなのよ!)をさげた秘密基地が作れるほど大きく枝をひろげたガジュマルの姿や、ムーチービーサの寒さで手を真っ赤にしながらゲットウ(月桃)の葉を洗った冬の日だったり(中略)沖縄には琉球王朝時代から伝わる「琉球庭園」と呼ばれる伝統的な庭の形式があります。例えば、家を造る時に〈家相〉を参考にする人もいるでしょう。同じように、庭にも言い伝えられてきた〈庭相〉があるようです。(略)

 なのです! 沖縄には昔から伝わる庭造りの思想があったのです。沖縄らしい庭造りの植物もあったのです。そして最大の特長は、沖縄の身近にある植物を、その植物が適した場所の紹介をしているところなのだ。なんと、植物に適した場所ではなくて、植物が適した場所なのですよ! 適材適所という言葉は聞くけど、適樹適所なのです!また、この分類の仕方が著者ならでは、というか独特!場所別に、「シンボルツリー」「生け垣・庭木」「家の裏」「門の脇」「キッチンガーデン」「公園・街路樹」「玄関脇」「インドアプランツ」「御嶽の植物」の九つに分け、更にキャラクターマークを付記している。それがまた面白い! これもまたなんと、「魔よけ」「嘉利吉」「聖木」の3種類あるのだ!思わず「!」をいっぱい付けた文章になってしまったけど、本当に面白いと思いませんか?

 まず、場所別に『家の裏』『御嶽の植物』とありますねえ。家の裏って、考えてみたら、昔でいうところの『アタイグヮー』じゃないですか。選ばれている植物も、バショウにビワ・ザクロ・ヒラミレモンと、実のなる植物だし、薬としても実用性のある植物ばかり。『御嶽の植物』にしても、ビロウ・アダン・ソテツ・クロツグ・オオタニワタリと、聖にして魔よけになる植物が並んでいる。他にも沢山の植物が、この本の中に繁茂しているのだけど、紹介できないのが惜しいくらいだ。
 植物の写真だけでなく、きちんと植物の解説やおばあちゃんの智恵っぽい、一口メモなどもあるので、庭や各所に植えて最適の植物に詳しくなること請け合い。巻末には、「実践ガーデニング」として、土づくりから堆肥、育て方なども掲載されているので、至れり尽くせりの内容といっても過言ではないだろう。きっと、貴方も、本書を手にしたその時から、自分なりの琉球庭園を造ってみようと思うことだろう。

 そうか! こんな意味があるのか! そういえば、じいちゃん・ばあちゃんから聴いたことがあるなあ! など、いろんな感想が生まれてくることだろう。本当に目から鱗が落ちるとは、この本のためにあるような言葉。沖縄ってまだまだ主題があるんだなぁと、私自身思った本でした。本当に手にとってみないと、この魅力は味わえませんよ!最後まで「!」が続く、今回の県産本ライブラリーでした!
(06年9月19日)

加奈子メモリアル 愛の一雫

●加奈子メモリアル 愛の一雫
大湾加奈子・大湾由美子著 沖縄時事出版刊 定価1500円(税込)

 大切な人を思うとき、あなたの大切な人って誰ですか? そして、どんな人ですか?即座にある人の画像が浮かんでくる人もいるだろう。急に聴かれても困ってしまうと思う人もいるだろう。しかし、その人が急に亡くなってしまったら……。この世の中から消えてしまったら、どうするだろう。深い悲しみ、喪失感、いろいろあると思う。

 私は、母が亡くなったとき、悲しみというよりも、喪失感や寂寞とした感覚に陥ってしまった。いつも座っていた場所に、母がいないという事実を受け止めるのに時間がかかってしまった。悲しみが襲ってきたのは、その後だった……。人は生きている限り、悲しみや楽しみとは無縁ではいられない。できるなら悲しみは来ないほうがいいのだが、それでもやってくるのが悲しみだと思う。

 本書は、そんな母の喪失感や悲しみが全編に溢れている本である。しかし、主人公である加奈子さんの病気のことや、亡くなったことは書かれていない。紙面に描かれているのは、元気な加奈子さんであり、しっかり者の加奈子さんであり、友人から好かれていた加奈子さんであり、幼かったころの加奈子さんである。そこには、たくさんの加奈子さんでいっぱい。だからこそ、母大湾由美子さんの悲しみや喪失感を強く感じるのであろう。

 子どもは、いつも可愛いものではない。憎たらしくなることもあれば、あきれ果ててしまうこともある。自分の育て方を後悔することもある。それでも子どもは可愛いもの。無償の愛。それが、親が子に感じるものだと思う。

 本書は、遺稿集ではない。ことさらに病魔に耐える主人公を描いているわけでもない。いつもそばにいて、すぐ話しかけてくるような加奈子さん。生まれたときから、大学に入学するまでの加奈子さんしか描かれていない。それだけしか語られていない。全力で駆け抜けた加奈子さん。それを温かく見守る家族や友人、学校の先生たちや地域の方々。今でも由美子さんの中で、加奈子さんは生き続けているんだと思う。淡々とした悲しみ。そんな悲しさが実際にあることを知らせてくれる。そんなことを思わせる本だ。私たちにとって大切な人は誰なのか。じっくり考えてみるのもいいかもしれない。涙が溢れてくるばかりが悲しさではない。
(06年9月11日)

おきなわの路面電車

●おきなわの路面電車
大正3年~大正8年まで那覇の街を走っていた 甦れ! チンチン電車

絵/松崎洋作 文/船越義彰 ニライ社刊 B5判 定価1500円+税

 モノレールが那覇の街を走り始めて風景が変わった。 
 私の住む部屋からも、町並みを縫うように走っていくモノレールの姿を見ることができる。まるでオモチャのようなモノレールだが、近隣の住民にとっては、有り難く大事な乗物にちがいない。私も時折利用するが、学生や通勤客、観光客が乗っている。那覇の新しい風景や古い町並みを走るとき、近代的なモノレールと私の住み慣れた那覇の街が渾然一体となって目の前に現れてくる。 

 私の生まれ育った町を通るモノレール。その光景にある既視感を抱いてしまう。 
 幼いころの私、小学校で遊んでいる私、中学校の部活で汗を流している私、ぶらぶらとのんびりと高校への道を歩いている私。それらの上空を飛び、私の成長していく姿を見ているような錯覚に陥ってしまう。 
 公共の交通機関は、ある記憶をもって語られ、そしてさまざまな人たちの生活を彩っているに違いない。 

 そこで本書。タイトルからもわかるように、沖縄を、それも那覇を路面電車が走っていたなんて……。 
 それも、大正8年から昭和8年までの20年間だけだなんて……。 
 それも、6.9キロメートルの営業距離しかなかっただなんて……。 
 軽便鉄道だと思っていた泊高橋を走っているのが、路面電車だったなんて……。 

そんな……がいくつもつくようなことが、表紙から伝わってくる。 
これまで軽便鉄道の存在しか知らなかった私にとって、この路面電車の存在はビックリすると同時に、是非見てみたい、乗ってみたいと夢想する乗物となった。 

本書の特徴は、何といっても、見開きで展開されていく路面電車20の駅周辺の絵。そして、エッセイとしても読めるし、歴史の一こまの解説としても読める船越義彰氏の文章。 
今となっては、見ることも、面影を探すこともできない当時の風景を、松崎洋作氏は見事なまでに再現し、船越氏は、文章で当時の駅周辺の光景を切りとっている。 

そして、ページの右端に掲載されている古い写真が、二人の描く路面電車の駅を補完してくれる。三者が自分を主張し合いながら融和している感じなのだ。 
そこには、20の駅の特徴を捉えている。住んでいる人々が造り上げているもの、地理的条件が造り上げているもの、中心となる建造物が造り上げているもの、いくつもの駅がこの本の中に満ちあふれている。 
そこには、失ってしまったものへの憧憬と、切りとられたものに対する痛みがある。 

内容まで深く書くことができないのが残念だが、とにかく、松崎氏と船越氏の絵と文が秀逸な本なのだ。 
特に、船越氏の文からは、かつて読んだ『沖縄物語』(古波蔵保好著)の、郷愁溢るる長閑なる沖縄の風景、王府時代のスインチュの姿や、『なはわらべ行状記』(船越義彰著 沖縄タイムス社)にみる幼い子どもの視線から見た那覇の街や、当時の大人の姿を思い出してしまった。また、那覇の民俗地図を立体的に見ることができるような気がした。 
48ページの本だが、この本からは、たくさんの情報とたくさんの思い、そしてたくさんの連想が生まれてくる。 

この本の中を走っている路面電車は、私が生まれた場所と現在住んでいるところを結んで走っている。もし、今、路面電車がこの線路を走っていたなら、私はこの路面電車とともに成長していったことだろう。 
本書の中で展開されている那覇の街は決して私の知っている那覇ではない。だからこそ、本書の絵と文、写真の中で、自分なりの那覇の街創造して遊んでみることができるのかもしれない。 
(06年9月5日)

琉球の死後の世界

●琉球の死後の世界
崎原恒新著 むぎ社刊 四六判 定価1800円+税

 今年に入って、近親者やお世話になった方の告別が多くなった。特に今月(8月)は、連続して4件の告別式へ行った(ただ、そのうちの一つは、親戚で、私が墓開け当番だったので告別式には参列していないが)。 

 20代から30代前半にかけて、結婚式への参加が多かった。沖縄では誰でもそうだと思うが、結婚式難民というか、お祝いで懐が寒くなるほど。幸か不幸か、私はあまり友人がいないので、頻繁に参加したわけではないが、知り合いの中には、毎週末結婚式へお呼ばれされている者もいたほどだ。 
 それからしばらくは、出産のお祝いが続いた。 

 それが、30代後半から告別式へ出ることが多くなった。いろいろな義理もあるので、毎日の新聞チェックは欠かせない。 それだけ死が身近になってきたということだろう。 

 私自身、人間は、死んだら無の存在となると考えているが、臨終から通夜、告別式、納棺と一連の流れを見ると、遺族や関係者の悲しみ(もちろん、私自身も含めて)は、何かしらこの世に残っていくものだろうと思うようになった。 
 その方が記憶に残っている限り、死というものは、私たちの身近にあるのだと思うのだ。 

 そこで本書。「はじめに」の文章の中で、著者である崎原氏は、死や死後の世界について、こう述べている。少し長くなるが、引用してみたいと思う。 
 琉球でもそうであるが、人々は死後の世界の存在も認め、また人間以外の妖怪の存在も神々の存在も認めてきた。さらに、生物的な死霊・妖怪変化だけでなく、生物以外の怪異の存在も認めてきたといえる。 

 もちろんいつの時代でもそうであるが、死後の社会や異界に対する考え方は、その時代と社会情況によって一つの流れを形成する。しかしまた、同時に地域差や個人、個人による認識の相違も当然あったはずである。死後の社会の存在を否定することが極めて困難であったことも事実であったと思われる。 
 たとえば家族や親族の死に直面したとき、その意味は単なる骸として処理することはしないし、一六日祭・清明祭・年忌法要にも参列し、供養を行う。知人、友人の死去に際しても、死後の世界が無いとして参加しないことはない。単なる義理や形式だけではすまない側面を持っているといえる。 
 死後の世界を否定する者でも、あれはいったい何であったのだろうと回顧する体験を持つ者も少なくないと考える。私もこのような体験をしたことがある。 

 そうなのだ。死後の世界がいくらないと理屈では考えていても、頭から否定することが難しいのだ。告別式や周忌法要、一六日祭や清明祭、盆、彼岸など、あの世の行事を行っているウチナーンチュにとって、死後の世界を簡単に否定することは、人情的に困難なことなのだと思う。 

 本書は、「琉球の異界」の概況から始まって、「死のまえぶれ」「生き返った話」「幽霊のはなし」「火の玉」「動物の怪・植物の怪」「その他の妖怪たち」「道具の怪」「まよけとまじない」と九つの章からなっている。
 何と、動物や植物にも怪異が見られるのだ。ああ、道具にもかあ。といった感じで、様々な怪異が語られていく。それが、崎原氏の調査に基づいているだけに、それぞれの地域の人びとの生の声が聞こえてくるような感じがしてしまうほど。 
 所変われば品変わると、よくいわれることだが、この狭い沖縄ではあるが、地域によって本当に違いがあるんだということが理解できた。 
 それくらい、死というものが近くにあったのだろうし、自然に近かったのだろう。また、日常生活の中で使う道具類も大事に、大切に使っていただろうということが分かるのである。 

 現代の私たちには計り知れないほど、死や死後の世界が身近であり、切実感をもって感じられただろう、かつての沖縄。 
 沖縄にはまだまだ私たちの知らない世界があるということを、本書は教えてくれたし、知らなければならないと警告してくれているような気もした。 

そして、死後の世界とうまく付き合ってきた昔人たちから、こうして死後の世界とは付き合っていくんだよという、私たちへの優しいヒントを与えてくれているような気がする。
(06年8月28日)

組踊の世界 私の見方・楽しみ方

●組踊の世界 私の見方・楽しみ方
勝連繁雄著 ゆい出版刊

 これまで何回も言ってきたし、書いてきたことだが、私は組踊が大好きだ。何回も舞台を観てきた。好きな組踊も好きな立方も、好きな地謡もいる。
 しかし、組踊の構成や作者の意図した台詞や内容が伝えているもの、実演家の方々がどのような気持ちで演じ、謡い上げているかを考えながら観ることはあまりなかったように思う。たぶん、私と同じように、ただ舞台の面白さだけで観ている人は多いと思う。

 そんな私に、組踊の奥深さと更なる面白さを教えてくれたのが本書「組踊の世界 私の見方・楽しみ方」だ。そして、私の理解していた組踊が表面的なものであったことを教えてくれた。

 何よりも嬉しかったのが、取り上げた組踊の展開に合わせて解説していく手法。例えば、「執心鐘入」であれば、最初に演奏される「金武節」の解説があるのだが、単なる解説ではなく、金武節がこの場面に配置された理由、他の組踊に採用されている金武節との相違、類似点が挙げられ、それから次の場面説明に移る。そして展開に合わせて、主人公中城若松と宿の女の台詞やり取りの意味などの説明がされていく。

 それが、難しい文章ではなく、わかりやすい文章で綴られているので優しいのである。読むほどに、舞台が脳裏をよぎり、頭の中で、新しい「執心鐘入」が演じられていく感じなのだ。

 他の組踊も同様。本書には「執心鐘入」の他、「二童敵討」「女物狂」「孝行之巻」「銘苅子」「手水の縁」「万歳敵討」「花売りの縁」「大川敵討」の計9本が採り上げられているが、その全てにわたって、組踊の魅力が余すことなく解説されている。

 周知の方も多いと思うが、著者の勝連繁雄氏は、現役の実演家であるとともに、高校の教諭もなさっていた。その実演家としての積み重ねと、高校生へ教えていった経験の深さがあってからこそ、本書のような、組踊の魅力のエキスの全てを搾り取ったような内容が表現できるのであろう。
(06年8月21日)

「ぶながやと平和のたね」と「ブナガヤと山善オジー」「ぶながやの見た夢」

●「ぶながやと平和のたね」と「ブナガヤと山善オジー」「ぶながやの見た夢」
たいらみちこ作 紅型染絵 紅型染工房ぶながやみち刊

 本書は、たいらみちこさんが描くブナガヤシリーズの3作目。私が楽しみにしていた本だ。
シリーズ第1作「ぶながやと山善オジー」を手にしたとき、私は吃驚仰天してしまった。とにかく絵が綺麗なのだ。

 まず、見返しが表も裏も図柄が違う。見返しというのは、表紙の強度を高めるために付けられている紙で、色用紙を使用することが多い。この見返しをたいらさんは見事に変身させた。紅型染めをそのまま見返しとして使っているのだ。それも前述したように、表見返しと裏見返しの図柄を変えて……。見返しの段階からたいらさんの世界に魅きこまれるではないか。
見返しは、単なる見返しではなく、本の内容をさりげなく表現するものだという意識はあったが、たいらさんの見返しによって、本のイメージが編集者として硬直化していたことに気づかされたのであった。

 また、これまで紅型というと、着物や風呂敷はもちろんだが、室内の装飾品として、ハンカチなどの小物類として商品化されているのは見たことがあったが、絵本の絵として染めるなんて、まさしく発想の転換ではないだろうか。
とにかくビックリぎょうてんの絵本だったのだ。

 このように書いていくと、前に進まなくなっていくので、内容に入っていくことにしよう!

 とにかくビックリした私は。たいらさんの世界に魅きこまれながら、あっという間に読んでしまった。キャラクターのブナガヤも可愛いし、絵とキャラクター、話の展開が独自の世界を構築していて、内容も面白いものであった。紅型がこんなにも表現力が豊かな染織物だとは知らなかった。いろんな人に勧めてきたが、皆一様に紅型の作り上げる世界に驚嘆の表情を浮かべ、喜んで読んでくれた。続編の刊行を楽しみに待っていた。

 2作目の「ぶながやのみた夢」も、予想を裏切らない内容だった。そのたいらみちこさんの3作目。たいらさんは、これまで、「ぶながやと山善オジー」でブナガヤと人間の過去を、2作目「ぶながやの見た夢」では、ぶながやと現在の人間、そして社会を描いてきた。2作目、そして本書と、たいらさんの描くぶながやの表情は暗い。しかし、それも冒頭でのこと。最後はぶながや本来の明るい表情に戻っていく。本書では、ぶながやと人間社会の未来像を描いている。それも、沖縄国際大学のヘリ墜落事件をきっかけとして物語が展開していく。たいらさんの理想とする世界を…。

 本書でたいらさんが主張しているのは、幸福というのは待っていても来るものではない。自分たちが行動し、願わないとやってくるものではない。そして、平和はすべての人間に平等である。万物が共生しないと、真の平和だとはいえない。そのことを3作を通して訴えていると思う。平和主義者のぶながやが生きていくためには、武器も戦争もあってはならない。私たち人間も同じはずだ。かつて船越義彰氏は、詩というジャンルで「キジムナー」を描き、平和であることの大切さを訴えた。今、たいらさんが紅型という沖縄独自の工芸を通して「ぶながや」を描き、主体的に平和を育ててくことの大切さを訴えている。3作を通して、身近な方々と平和の大切さを考えるのもいいと思う。それも、見とれてしまうほど美しく、表現豊かな紅型の世界があるから、余計に平和の重要性が理解できると思う。


 たいらさんの描く平和の味は、深遠で甘美である。
(06年8月14日)