娘と私

 よく「宮城さんの娘さんは、本をよく読んでいるのでしょうね」と聞かれる。私が本好きであることを知っているので、娘も本が好きなのだろうと思うらしい。考えてみれば、幼いころから、本は充分過ぎるほどに揃えてきた。と思う。娘が成長したら、いろいろな本について語り合うことができたらなぁと、淡い期待を抱いていた。

 しかし、親の期待を裏切るのが子の常。我が娘も、読書好きだと公言し、同級生からもそのように見られているようだ。でも、何か物足りないと感じてしまう私がいる。

 幼いころは、私は好きな絵本には見向きもせず、テレビで展開されるアニメのヒロインものに傾倒していたし、小学校になってからは、活字が好きになったと思えばジュニア小説にはまり、そればかり読んでいるし、それ以降も漫画本や私にはよく分からない、娘の世代向きの本を読んでいた。私のところに来るのは、宿題か課題で出された読書感想文を書くときであった。自分の読んでいる本が読書感想文に向いていないと考えたのだろう。小学校から中学校までの9年間、娘と共に、久しぶりに読書感想文に向き合ったことを憶えている。(私自身、読書感想文を書かせることには抵抗があるし、反対なのだが、それは筆を改めて、「学校の中での読書推進運動考」として書きたいと思う)。

 そして、大学生となった現在。やはり私が読むことのないだろうというジャンルの本を読んでいる娘。今はやりの純愛ものだという。どう? と聞かれても、私にとっては、「ふ~ん」としか言いようがないジャンルだ。ただ、以前とは違って、お互いに少しずつ歩み寄って、オススメの本を紹介したりしている。娘から「お父さん、何か面白い本ない?」と聞かれ、どのような本が読みたいかを聞いて選んであげる。「あの本面白かったよ。他にもない」と言われると、素直に喜んでしまう。何事にも同好の士があれば、なおさら楽しめるものだということが理解できた。

 反対に、私が娘の面白かったという本を読むことがある。しかし、展開が甘いだの、同じジャンルだったら、あの人の方が面白いだのという、論評を加えるので、あまり勧められることはなくなった。本はひとり読むのもいいが、同じ本を読んで、いろいろな感想を述べ合うのも楽しいものだ。特に、同じジャンルが好きな場合は情報をお互い提供することもできる。娘とは、いつか、そのような関係になっていきたいものだ。

 これからどうなっていくかはわからないが、私と娘の本を巡る関係も変化していくことだろう。

琉球王女 百十踏揚(ももとふみあがり)

●琉球王女 百十踏揚(ももとふみあがり)
与並岳夫著 新星出版刊

 よく歴史のロマンという言葉を聞く。昔に思いを馳せて、郷愁ある世界を創造しての言葉だろうと思う。しかし、現実の世界にロマンという言葉の持つセンチメンタルさを見ることができないように、過去の出来事にしたって、厳しくどろどろとしたものであったに違いない。そういう観点で時代を読み込んでいくと、より、歴史上の人物像が身近なものに感じられてくることだろう。

 本書「百十踏揚」は、現代の我々よりももっと、自分の欲求に忠実であったであろう時代。その時代に翻弄されながらも、自我を貫こうとした琉球女性2人(百十踏揚と思戸)の姿を中心に描かれている。その中には、政略的な役割を果たさざるを得なかったステレオタイプの女性達の姿と、自分らしくいきようとした本書の中の女性の姿の相違と、同一さが見えてくる。

 時代は15世紀。琉球を統一した第一尚氏の時代。とはいえ、戦国の世を生き抜いてきた武将たちや、深慮遠謀を巡らす野心家たちが虎視眈々と時代を睨んでいる頃。本書は、脆弱な基盤の中で、琉球を安定した世界にしようと心を砕いていた尚泰久の時代。現在では、第一尚氏と称せられているが、当時は第一などという冠を被せることなく、御主加那志前として存在しており、勿論、その後の展開がどうなっていくかは知らない。

 それから始まるのが、琉球の歴史上有名な百十踏揚の降嫁。それから急展開で進んでいく物語。護佐丸や阿麻和利、鬼大城、金丸(将来の第二尚氏の祖尚円)ら琉球歴史史上有名な人物が登場し、それぞれの思惑に満ちた行動を取っていく。ここが歴史小説の面白さであり、歯がゆさなのだが、後世の私たちは結果を知っている。しかし、登場人物たちは知らない。それどころか、知っている結末に対して、まっしぐらに突き進んでいく。そのジレンマと、だからあのような結果になったのかという納得感。

 点で知っていた護佐丸や阿麻和利の乱がどのような経過で起こったのか。鬼大城は、どのようにして歴史の上から抹殺されたのか等々、点でしか見えてこなかったことが、線となって見えてくる。この快感。歴史小説ならではのフィクションと、ノンフィクションを取り混ぜた展開に時間を経つのも忘れて読んでしまう。

 この小説には、そんな魅力が隠されている。それには、著者の与並岳夫さんの詳細な検証と、丁寧な考証があってこそ。

 この場であらすじを書くわけにはいかないので、アウトラインだけを書いたが、琉球の歴史に興味のある方、これから知りたいと思う方には絶対お薦めの大著。頁数が多いので、気張ることなく、ゆっくりと時間をかけて読むことだろう。
(06年7月24日)

活字離れ

 最近は、中高生をはじめとして本を読まなくなった。活字離れなのだ! などと、大上段に書くつもりはない。まぁ、書いたとしても、書いている本人自体、難しくて意味がわからなくなるはずだから書かないということもあるが……。

 今回書こうと思っているのは、中高年層の活字離れなのである。若い頃は、中高年になっても本は読めるものだと過信していた。居酒屋などで、知り合いのおっさんたちから、「本は読みたいけど、目が疲れるから読めんさぁ」「老眼入ってよ。字読むのが辛くなってきた」などという話を聞いても、自分は絶対老眼になんかならないと思いこんでいた。今思えば、何ら裏付けのない自信だった。

 40歳を越える頃から、活字が読みづらくなってきた。私は夜寝床で本を読む習慣があるのだが、ある日、眼鏡を掛けたままだと字が読めなくなってきたのに気づいた。いや、とうに読めなくなっていたのだが、本能的にそう思うことを拒否していたのかもしれない。それで、眼鏡をはずしてみた。おおぉっ! 見えなかった字が見えるではないか!

 それが老眼だと自覚した最初。今では、本を読むときには少し離して活字が読める位置まで持っていくか、眼鏡を外してから読むことにしている。いや、しているのではなくて、そうしないと字が読めないのだ。幸い、パソコンに関しては、まだ大丈夫なので、書くことに関しては不自由を感じることはない。しかし、それもいつまで続くことやら……。今では、近視用の眼鏡と老眼鏡を2種類用意するか、遠近両用にするか迷っている。まぁ、じっくり考えてみることにしよう。活字中毒を自称している私でさえ、本を読むのが辛いと感じることがあるのだから、本と関わりを持っていない方々は、本を読もうなんて思わないに違いない。そんなことからも活字離れは進んでいくのだ。齢を経ないとわからないこともある。何事も経験なのだが、悲しい実感である。歳をとって、いろんなことを経験して編集できる本がある。自分で体感しないと作れない本がある。頭では理解していたことだが、老眼になってから実感したことだ。これからは老眼の人でも、読みたくなるような本を作っていこう。最近決心した。

 実際、最近の私の編集物は活字が大きくなっている。読者対象が年輩ということも関係しているが、字を大きくすることへの抵抗感がなくなったためだと思う。「宮城君、お前の名刺の字は小さくて読めん。もっと大きい字にしなさい」だの、「もっと大きい字の本を作ってよ」など、いろいろ言われてきた。今では、「あのさ、もう少し級数を上げないと、中高年の人には読めないよ。この字は小さすぎるように思うけどなぁ」と、若いオペレーターに言っている私がいる。

 少しバカにしたような目でみる若者へ、『お前たちもいつかは分かることさぁ』と、密かに考えている私がいる。

新編 沖縄の文学

●新編 沖縄の文学
沖縄県教育文化資料センター『新編 沖縄の文学』編集委員会編  波照間永吉監修
沖縄時事出版刊  組踊特集第2弾の県産本

『執心鐘入』の紹介の項でも書いたが、私が初めて組踊と出会ったのが、高校2年生の秋。高校の先生方で組織する「高教組 組踊部会」の演ずる執心鐘入だった。

本書は、その組踊部会の先生方も参加して編集した本。高校の国語の時間のテキストとして編集された本だ。

内容は、『身近な方言』『歌謡-祈りの文学・オモロ・奄美の歌謡・宮古の歌謡・八重山の歌謡-』『琉歌』『琉球説話文学-神話・伝説・方言説話』『評論』『琉球和文学-和歌・擬古文物語』『随筆』『琉球漢詩文』『資料編-文学史年表・方言の音節仮名表記・琉歌マップ』という8章と資料編からなる。

この内容をみてもわかるように、方言から歌謡、漢詩まで盛りだくさん。この本一冊で、琉球の文学が概観できるといっても過言ではない。

前述したように、本書は高校生のテキストとして編集されているので、高校生レベルで理解できるように編集されている。なので、これから琉球の文学を知りたい、あるいは学びたいという人には最適であると思う。

奥深く、楽しく、面白く、味わい深い、沖縄の文学の世界に浸ってみようではないか。
(06年7月18日)

写真集 風雪の記録

●写真集 風雪の記録
豊島貞夫(文・写真)自費出版

 復帰前の沖縄の教育界を主題とした本は少ない。ましてやそれが、写真を中心とした本というのは、見覚えがない(私の勉強不足で見ていないだけかもしれません。もし発行されていれば、申し訳ありません)。

 それも、「へき地教育」から始まって、「復帰前の行政」まで入るとなると手に取ってみたくなるのは必然のことではありませんか。

 本書は、A4判横長のモノクロ写真集で、200頁ですが、最初から頁をめくるたびに、「ああ、こんな風景があったなぁ」とか、これは見たことがない。こんな沖縄の風景もあったんだ」と思わせてしまう。もし、復帰前の沖縄を知らない若者でも、かつての沖縄の風景を知るだけでも価値のある本であると言えよう。いや、本書に惚れ込んだ私は、断言する。『頁を開いて、そこに広がる沖縄の風景を見るだけでも、価値はあるんだ』と。

 また、写真はただ漫然と見るだけでもいいものだが、このような資料的価値が高い写真は、写真自体から訴えかけてくるものがある。文章を読むのと同じように、写真を読むということが可能なのだ。

 戻る道から始まり、久米島の竹馬の少年達、へき地校で勉強する子どもたちや、子ども達の視線で教壇に立つ先生方、風疹児の世界、教公二法で体を張って沖縄の未来を支えようとした教職員の姿、大規模校で勉学に励んだ子ども達、地域の方々、復帰を前にして、苦悩の色を隠せない屋良県知事の姿、政府職員の皆さん、いろいろな方々の思いが紙面から伝わってくる。

 短い時間では語れないほどの内容が本書にはある。自費出版であり、読者の手に届きにくいのが残念だが、是非、復帰前の沖縄のエネルギーや、人々の飾らない姿、素朴な人々や風景を見て感じて欲しいと思う好著である。(06年7月10日)

本は重い?!

 4キロ近い本を編集したことがある。ただ、1冊の本ではなく、10冊セットの本だったからなのだが、何といっても重かった。その本の納品の日。何と、5000セットが一気に納品されることになった。当然、担当の私も立ち会わなければならない。というか、倉庫へ収める作業をしなければならないのだ。当日の朝、予想できる難儀さに、休もうかと思ったほど。しかし、それではいけない。何とか自分自身を鼓舞して出勤、製本会社の車を待った。納品作業は、今思い出しても大変な作業だった。何せ、4キロの本が4冊まとめて箱に入ってくるのだ。総重量16キロ。腰が抜けそうになった。翌日まで体が重くて、だるかった。
 いくら自分の編集した本が可愛いからといっても、あんな難儀はしたくない。

 私が最初に編集の仕事を始めたのは教材編集の会社だった。当然、新学期を中心として、学校への納品がある。その会社は、編集者が重要な配本要員だったので、当然、私も配本部隊としてスケジュールを組まれていた。当然、この場合の教材が詰まった梱包も重い。それを担ぎながら階段を登っていく。大変だった。休み時間など、子どもたちの遊ぶ中をかき分けて配本することもあった。好奇心旺盛な子どもたちに「おじさん何してるの~?」だの、「その箱に何が入ってるの~?」などという質問の嵐をかき分けて運ぶのは、箱の重さと愛想よくしないといけないという辛さ(営業から、学校ではとにかく愛想良くしとけと注意があったのだ!)とで二重苦だった。

 また、別の会社では引っ越しを体験した。当然、倉庫にあった2万冊近い本も引っ越しをすることになった。クレーン車まで出動する作業だった。準備期間を含めると、1週間かかった。
 この一連の作業を経験して、ぎっくり腰となった。今でも季節の変わり目や梅雨時には慢性的な腰痛に悩まされている。
 1冊1冊は手に取っても負担にならない重さで面白い本たちだが、商品として書店へ並ぶまでは、一つの梱包で運ばれる。それが重いのである。何冊かまとまった本たちは重い。

 最近では、電子出版などといいう形態ができて、携帯電話などでも読めるらしいが、そのような形態が主流となっていくと、本は重いなどということは、遠い昔のことになりかもしれない。でも、重くても、ぎっくり腰になろうとも、重いということも含めて本は魅力的なのだ。

 活字中毒の私にとって、本が手元からなくなるのが一番怖いこと。なので、いつも持ち歩いているカバンには、常時2冊から4冊程度の本を入れて持ち歩いている。それで、私のカバンはいつも重い。それでも私のカバンから本はなくなることはない。
 軽い内容の本、重い内容の本、大きい本、小さい本等々、沢山の本が流通している。でも、どんな本でも著者や編集者の、その本への思いが詰まっている。
 本が重いのも当然かもしれない。

執心鐘入

●執心鐘入
玉城朝薫/原作 安室二三雄/作画 岡田輝男/解説 琉球新報社刊

 『国立劇場おきなわ』が開場して2年がたった。これまで文化財としての認識はあったものの、観劇という面においては、愛好者のみにとどまっていた組踊が、県民に脚光を浴びることとなった。組踊大好き人間の私にとって、組踊がどのような反応をもって、県民や県外の方々に受け取られるか非常に楽しみだったが、未だに、組踊のことを分からない県見も多い。残念なことだ。そこで、改めて、組踊関連の本を読んでみた。今回はその中の一冊。

 私が組踊に初めて出会ったのは、今から二十数年前のこと。在学していた高校の体育館であった。秋口のことで、まだ暑かったのを覚えている。演じたのは、高校の先生方で組織する「高等学校教職員組合 組踊部会」のメンバーの皆さん。勿論、ある程度のレベルがなければ組踊を演ずることはできないので、いろいろな学校の先生方が集まって組織していたのだが、自分が直接教わっている先生がメンバーに入っているのを見て、びっくりしたことも覚えている。内容はというと、何せ初めて観るものだから、ちんぷんかんぷん。しかし、組踊の発する魅力に充分魅せられたことは確か。何といっても、あれから組踊を観るのが趣味ですと言い切るようになったのだから。それぐらい、最初に観た組踊『執心鐘入』は、私にとって、驚きであり、新鮮であり、様式美に魅せられた時間だったといえよう。私が感じた初めての琉球の文化だったともいえると思う。

 さて、組踊特集第一弾の「執心鐘入」。

 私が最初に観た組踊であり、現在でも一番多くの上演されている演目であり、組踊の最高傑作とも称せられる一番。本書は、ストーリーが全てコンピューターグラフィックによって構成されており、非常に見やすい内容となっている。特に、組踊で理解しにくい台詞が、解釈文と共に掲載されているので、「執心鐘入」を観たことのない人でもわかりやすくなっているのが特長。いはば、カルタのように、原文と解釈文が一緒なので、舞台の展開と台詞の展開が同時になっているので、まるで、舞台を観ているような臨場感も味わえるというわけ。

 組踊を観たことのない方が多いと思いますが、本書によって、組踊とはどのようなものか、「執心鐘入」とは、どのようなストーリーで、どのような面白さがあるのかを味わっていただければと思う。
 何度観ても、新鮮さに変化のない組踊の世界。まずは、本書のような入門書で、入り口に立ってみることをお薦めする。

 さぁ、一緒に、「執心鐘入」の世界に没入してみようではありませんか。
(06年7月3日)

沖縄県産本

 私は、県産本ネットワークという、沖縄で編集・出版されている本を広め、販売に結びつけていこうと活動しているグループの会員で、ラジオで、県産本の紹介コーナーを持っている。ご周知の方も多いと思うが、沖縄は出版が盛んなところで、年間200から300冊近い書籍が発行されている。よく、「どうして沖縄はこんなに出版が盛んなのですか」と聞かれるが、そのたびに私は「沖縄は本を読みたい人よりも、出したい人が多い地域だと思うんです」と答えることにしている。そうでなければ、県内出版の多さが説明できないからだ。

 沖縄は全国的に見ても出版が盛んな地域といえる。年間200冊から300冊近い本が出版されているので、驚く人は多い。ただし、この出版点数は公式なものではない。本当にありとあらゆる所から本は出版されているので、出版点数を調べることが不可能なのだ。くわしくは、当コーナー「いっしゅん堂本舗」にて後日改めて書くつもりなので、ここでは細かく書かないが、出版が多いというのは誰でもが認める事実といえるだろう。

 かくも出版点数の多さを誇る県内出版だが、一般読者の目につくような場所に置かれている本は意外に少ない(本当に意外に思われる方は多いと思うが、書店に置かれている県産本は県産本の一部でしかない)。一般読者の目が目にしている本は、数多ある中の一部なのだ。では、書店に並んでいる以外の本とは何か。それは、自費出版本なのだ。

 自費出版というと、功成り遂げた老人が、自分の自慢話をしていると思う若い人が多いと思うが、自費出版とは簡単に言えば、出版に関する費用を個人で出すこと。つまり、自分の本を自分でプロデュースすることなのだ。出版社では採算が取れないので、自費出版せざるを得ない本もあるが、自分のことを書いたものなので、自分で責任を持って出したいという人がほとんどである。中には、おじいちゃんや、おばあちゃんの波乱に満ちた人生を、記録として残したいということから、家族の方々の説得で出版する方もいるし、生年祝の席の記念品として編集する方もいる。

 人間の数だけ人生があるとは、よく言われることだが、自費出版の数だけ、さまざまな人生が込められているといってもいいのではないかと思う。種類も、個人史あり、体験記あり、歌集あり、家族の写真集あり、多岐にわたっている。その本のいずれにも、著者の息づかいが聞こえてくるような気がするのは私だけではないだろう。

 少し、標題とはずれてしまったような気もするが、沖縄の人々にとって出版が身近にあるということは事実。版元が刊行する商業出版物も多いが、今日も、自費出版本が生み出されているのが、沖縄の出版なのである。そして、それが、巷間言われている沖縄県産本の隆盛ぶりを支えているのである。