『ウチナーグチ入門』

『月刊琉球』2月号(株)Ryukyu企画発行

生活の中のウチナーグチ

 北は九州の南から台湾へ弧状につらなる島々を琉球弧とよんでいます。その中に沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島があり、それぞれに異なった琉球諸語(シマクトゥバ)がのこされています。

 琉球諸語は地域ごとに特徴があり、一般に奄美方言、沖縄方言、宮古方言、八重山方言に分類されています。かつて各地でウチナーグチが話されていた時代は、道一つ隔てただけでなまりが変わるともいわれていました。

 本書「ウチナーグチ入門」では、そのような多種多様な琉球諸語の中から、一般的とされる首里や那覇地域のウチナーグチ(スイクトゥバ)を取りあげ、様々なシチュエーションのウチナーグチを掲載しました。幼児語などの例外を除き、言葉とは一生を通じて用いられます。ウチナーグチもまた例外ではありません。本書を通読することにより、わらべうたや基本的な会話から、沖縄独自の表現である琉歌、さらに当時は政治・外交の面でも重要であった組踊に至るまで、仕事や育児や趣味など日常生活のあらゆるシチュエーションでウチナーグチを使っていたこと、その断片を見ることができます。

 さらに、ある種の「現代文」として昔ばなしの耳切坊主を日本語訳と共に再録してあります。日本語訳と対比させて読むことで、ウチナーグチが決して過去の遺物、古典世界の言葉などではなく現代社会においても十分に復権の余地がある言葉との認識を深めて頂ければ幸いです。

 とはいえ、本書はあくまでも琉球弧の中の一地域である首里や那覇のウチナーグチ、その中のごく一部を取り上げた入門書です。ここを入り口として、各地域のシマクトゥバ復興やウチナーグチへの誇りが育まれることがあれば、望外の喜びです。(徳元大也)

『沖縄の自然歳時記 季節と生き物ものたち』

掲載誌『月刊琉球』 2014年1月号 発行:Ryukyu企画

自然という文化

 「沖縄の自然歳時記 季節と生きものたち」は、春夏秋冬一年の季節を通じての沖縄の自然、とりわけ動植物を「文化的」視点から紹介した本です。

 「文化的」視点から沖縄の自然を紹介する、といっても分かりにくいかも知れません。例えば、本書には沖縄の自然を「分類学的」に紹介する本なら当然に掲載されるであろう「目」「科」「属」などの分類語はほとんど載っていません。その代わり例えば「アダン」なら、アダン・アダンギ(沖縄・奄美)、アダンムギー(宮古)、アザニ(八重山)と各地の方言が記述されています。

 また、本書のもう一つの特長として、種別ではなく季節を追って構成されている点が挙げられます。これもまた、「分類学的」書籍ではありえない構成だと言えます。しかし、だからこそ各々の季節での動植物の相互作用が想起できると言えます。

 本書が「分類学的」書籍ではないことを強調してきましたが、「分類学的」書籍でなければ何か。すなわち「文化的」視点からの書籍ということができます。 過日、とある講演会で「自然というのも文化の一つである」という話がありました。考えてみるとなるほど、自然に立脚しない文化というのは存在せず「文化的」視点から自然をみるということは、自然と文化のつながりを直視するということに他なりません。

 沖縄は「東洋のガラパゴス」と言われることがあります。なるほど、確かにそうなのかもしれません。しかしながら、我々ウチナーンチュはそのような「分類学」的視点のはるか昔から、沖縄の自然を沖縄の目線で語ってきたということ、その一端が垣間見える本書は沖縄文化社ならではの力作の一つです。(徳元大也)

『基地の島コンパクト事典』

掲載誌『月刊琉球』 2014年8月号 発行:Ryukyu企画

掲載誌『月刊琉球』
2014年8月号
発行:Ryukyu企画

 インターネットの普及に伴い聞かれなくなったことばに「ちょい引き」というものがあります。主に電子辞書のキャッチコピーのひとつで「気が向いたときスグに語意を調べられる」というようなニュアンスだったかと思います。なるほど、現在では「ちょい引き」どころかある程度専門的な内容までインターネットで検索が出来るようになりました。

 さて、この「基地の島コンパクト事典」は「基地の島キーワード」編、「沖縄の米軍基地」編、巻末資料編の三編に分かれており、沖縄の基地問題や米統治下の状況を読み解く上で、重要な単語や歴史的事件・事故、および現在まで続く在沖米軍の各基地についての解説が、沖縄の目線で解説されています。また、巻末資料にはニミッツ布告や祖国復帰闘争碑の碑文、沖縄戦後史を掲載し、単なる単語帳ではなくそれぞれの時代の文脈や背景を俯瞰できるような構成となっています。

冒頭の話に戻りますが、ある識者が紙メディアの必要性について次のように発言しています。『なぜ紙メディアが必要か?ホームページには「現在」しかない、歴史が刻印されないからである』と。二〇一二年一二月初版発行の本書には、今現在の基地問題に関するキーワード、「オール沖縄」や「建白書」についての記述は当然ながらありません。しかしながら、逆説的ですが、だからこそ価値があるとも言えます。二〇一二年一二月までに何があったのか、そこから何が起きたのか。

 来年で戦後七〇年になります。本書に掲載されている事柄も、読者によってなじみのあるもの、あるいは初めて耳にするようなものもあるかも知れません。本書が「現在」に追従するインターネットでは触れることの出来ない領域、すなわち「歴史」の断片と、そこから地続きの「現在」を考えるきっかけとなれば本望です。(徳元大也)

『沖縄の由来ばなし』

掲載誌『月刊琉球』 2014年7月号 発行:Ryukyu企画

掲載誌『月刊琉球』
2014年7月号
発行:Ryukyu企画

 辞書で「由来」ということばを引くと〝物事がいつ、何から起こり、どのようにして現在まで伝えられてきたかということ。また、その起源、歴史、来歴、いわれ〟と出てきます。昔から人々は、ふだん使っていることばや習慣、目にしているものが、どこからどのようにしてやってきたのかということを考え、それを語り継いできました。

 この「沖縄の由来ばなし」には、沖縄に関することばや習慣、歴史、地名など、いろいろな種類の由来ばなしが登場します。史実に基づくものもあれば、『むかしむかし…』で始まるようなものもありますが、それらを交差させて読むことで、古めかしいおとぎばなしと一線を画して読むのではなく、先人たちがのこしてきた沖縄に対する思いと、現在自分たちが立っている位置とのつながりが感じられるような構成としました。
 ある意味で由来ばなしとは、西洋的な学問以前の、土着の言語学、歴史学、地理学であり、そこには沖縄の精神性が含まれているとも言えます。例えば、古今東西の民話や神話において、蛇は河川や生命力の象徴として語られています。この本の中にも様々な形で蛇が出てきますが、それはどのような扱いでしょうか。海や天はどうでしょうか。由来ばなしを通じてこそ、脈々と受け継がれてきた沖縄的なものの見方や考え方が共有化でき、次代へ繋げられると考えます。

 また、由来ばなしに限らずあらゆる民話は、その土地のことばで語ることに、民話としての本来のすがたがあるかと思われますが、沖縄本島のみならず、宮古や八重山など先島の由来ばなしもふくめて、まずは、沖縄という場所の広さや深さを多くの人に伝えたいとの願いから、公用語としてのヤマトゥグチ(日本語)で収録しました。

 この本を通して、ふるさと沖縄を思う心がさらに育まれることを願っています。(徳元大也)

立腹のススメ

●立腹のススメ
宮良長和/著 宮良長和著作集刊行委員会/発行 沖縄タイムス社/発売 四六判 952円+税

 昔は、どこにでも怖いオジイがいた。子どもたちが悪さ(といっても、今から思えば可愛いもんだが)をすると、顔を真っ赤にして、「クヌ ヤナワラバーターヤ」といって、追いかけられたりした。頭から湯気が出てるんじゃないかと思うほどだった。怖かった。でも、オジイとのバトルが子ども達にとっての楽しみでもあった。そんなオジイも、何もしなければ非常に優しいオジイであった。でも、近寄りがたい雰囲気を持っていた。

 オジイと子ども達とのバトルは、幾世代の子ども達へと引き継がれ、かつての悪ガキが、年下の悪ガキに向かって「えー、お前達、あのオジイを怒らせるなよ。本当は人情持ちやんどー」などと説教をする姿を見ることもあった。最近、子どもは怒ってはいけない、叱るのが本当の愛情だ、なんていう人がいる。勿論、それは正しい。感情にまかせて一方的に怒っちゃいけない。でも、でもですよ、昔のオジイたちはやたら怒ってばかりいたが、決して愛情がなかったわけではない。年長者として、怒るべきところをきちんと怒っていただけだと思う。あの怒りを浴びて、私たちは地域共同体の一員としての知識を身につけていったのだと思う。怒りは必要だと思う。ただ、中途半端な怒りはいけない。真っ当に、誠心誠意、一所懸命怒らないといけない。と思う。しかし、そんなオジイが少なくなった。私自身、そんなオジイになりたいとは思うが、決してなれないだろうと思う。

 本書に、そんなオジイの姿を見た。懐かしい昔気質のオジイの登場という感じがした。オジイといっては失礼だと思うが、そう言わずにはおれない雰囲気を著者の宮良さんは持っている。でも、そんなことを言ったら、「何を言ってるんだ!」と怒られそうな気がするが…。本書の中の宮良さん、冒頭の『おのぼりさんの見たヨーロッパ』から、独自の怒り・ひねくれ・偏屈の世界に引きずり込んでいく。フムフムと、納得したかのような表情でガイドさんの説明を聞いている宮良さんが目に浮かぶ。口を真一文字に結び、背筋をピンと伸ばして、ヨーロッパの古い街並みを歩く宮良さんの姿を想像させる。毅然として、古武士然とした宮良さんとヨーロッパの伝統と融け合っているような感じが思い浮かぶ(但し、ここに書いた宮良さん像はあくまでも私の想像です)。

 しかし、素直に感動しつつも、ひねくれたことを考えてしまう宮良さんの姿もある。そのギャップが非常に面白いし、ついつい笑みが浮かんでくる。宮良さんらしいユーモアの世界が、本書の中には満ち溢れている。この紀行文だけでなく、本書の中の宮良さんは縦横無尽である。石垣、沖縄、日本を斬り、人間を見事なまでに分析していく。世の中の常識といわれるものに反論し、宮良流の切り口で持論を展開していき、博識ぶりを開陳していく。「ははは」と笑う世界ではなく、「ふふふ」と辺りを見回しながら、思わず笑みが浮かんでしまうような世界なのである。

 奥付をみると、宮良さんは1926年生まれ。大正15年である。大正ロマンの時代である(きな臭い時代に突入しつつあったとはいえ、名残は絶対にあったと思う)。その時代と、歯医者さんであり石垣という土地が宮良さんを創り出したのだと思う。お会いして、いろいろなことをお伺いしたいと思う方である。でも、いっぱい叱られるだろうな。怒られるだろうな。それを味わってみたいとも思う。本書を読んで、私も、物わかりのよいおじさんではなく、怒るべきところでは怒り、批判すべきところは批判するよう改めていきたいなと思った。素敵な頑固じいさんに会える本。それが本書「立腹のススメ」である。読後感の爽やかな本である。
(06年11月30日)

潮を開く舟サバニ-舟大工・新城康弘の世界-

●潮を開く舟サバニ-舟大工・新城康弘の世界-
安本千夏著・南山舎刊 四六判 1650円+税

 良い本に出会えたときの喜びは、何ものにも勝るものがある。人それぞれ好みがあるので、押しつけることはできないが、中には是非たくさんの方々に読んで欲しいと思う本がある。そして、その本の面白さや独自さなどを話すのだ。読書の面白さ、あるいは醍醐味といってもいい時間だ。しかし、そのような本に出会うことは少ない。 私は根っから吝嗇(りんしょく)な人間なので、面白い本があると、人知れず隠し持っていて、密かに読むのが好きだ。たまに、本の話をしていて意気投合し、作家論や作品論にいくこともあるが、それは極めて稀。滅多にないことだ。一人本を読む。隠微な世界がそこにはある。そんな吝嗇な私が、大いに人に勧め、面白いでしょ! と念押しし、テレビやラジオ、新聞でも、イチオシの本として紹介したのが本書。そのときの新聞に書いた文章を引っ張り出してみよう。

 今年の出版物は464点が沖縄タイムスの出版文化賞において計上されている。物足りなさを感じた昨年に比較して、153点も多く出版されており、今年の沖縄本は質量ともに、近年稀に見る傑作揃いであったといえよう。ただ、本稿を書くに当たって断っておきたいが、今年は、県産本を読むのに忙しく、沖縄本全体を俯瞰することができなかった。従って、本年の出版の年末回顧では、県産本のみにとどまることをお許しいただきたい。それぐらい今年の県産本は豊作年であったと断言したいのである。
(中略)
 その中で、私が今年一番印象に残ったのが、安本千夏「潮を開く舟サバニ」(南山舎)。サバニ造りの全工程を追いながら、舟大工・新城康弘氏の生き様や、サバニが、海人の叡知と結晶とであることを知らされた。何より、新城氏の言葉が名言揃い。職人として生きる人ならではの世界観を披瀝しており、取材した安本氏の丁寧な文章が独自の世界に誘い込んでくれる。(2003年琉球新報「年末回顧」より)

 どうです。惚れ込んでいるのがわかるでしょう。まず、表題の『潮を開く』という言葉に参ってしまった。サバニって、海を走る姿を見ると、本当に潮を開きながら走っていくという感じがするでしょう。序文に、池間島ではサバニのことを『スウニ(スウは潮、ニは舟のこと)』とあるけど、それでも潮を開く舟という表現はいいですよね。しかし私は、表題に限らず、安本さんの表現力に魅かれていったのですね。それと、舟大工である、本書の主人公、新城康弘さんの言葉がいい、そして表情がいい。 私は職人の世界に非常に憧れを持っているのだが、本書の新城さんは、まさしく職人そのものであり、限りない自分の世界を持っている方なのだ。

 本書は、安本さんと、新城さんの出会いがなければ、決して産まれてこなかった本だ。私はその出会いに感謝したい。それは、必然であったと思いたい。でなければ、このような素晴らしい本ができるはずがないから。本書の中には、新城さんと安本さんの信頼関係があり、新城さんの仕事ぶりを熱心に見守る安本さんがおり、優しい眼差しで語り合う二人の姿がある。本書の中の新城さんの写真にはお互いが信頼していなければ映し出されない、プロの世界同士の理解がある。

 語彙力の不足している私では、本書の魅力をうまく表現できない。だからこそいいたいのだ。「本書は是非読むべきですよ」「絶対に魅きこまれていきますよ」安本さんの文章を、本書以外でも読んでみたいと痛切に思う。次はどんな本を書いてくれるのだろう。そんな期待を抱かせてくれるライターに久々に出会ったような気がする。
(06年11月17日)

沖縄のゴミをなくす本

●沖縄のゴミをなくす本
エフエム沖縄+沖縄のゴミど~するべきか考える会編 (株)エフエム沖縄発行 定価1200円(税別)

 私は喫煙家である。最近、肩身の狭い思いをしている喫煙家である。会社でも、家でも、用事で立ち寄る場所でも、片隅で小さくなって煙草を吸っている。そして、灰皿のない場所では吸わない。ただでさえ、肩身の狭い思いをしているのに、吸い殻を捨てて、その場所を汚したくないからだ。なので、以前は携帯灰皿を持っていたが、面倒くさくなったので、持つのをやめた。携帯用の吸い殻入れを持っていなければ、自然と吸う本数が少なくなるからだ。そんな私をみて、周りの人間は、そんな状態であれば禁煙したらと言うのだが、簡単にやめてしまうのも癪にさわるので、しばらくは喫煙家であろうと考えている。そんな私が、一番気楽に、そして気兼ねなしに吸えるのが、車の中(但し、自分専用の車だけ)だ。煙は空中に流れていくので、非喫煙者への副流煙を気にすることはないし、煙草を吸ってもいいですか? と聞く必要もない。

 しかし、しかしである。車中で煙草を吸って、道路に捨てる喫煙者が目につくのだ。そんな輩には、「お前には煙草を吸う資格なんぞない!」と面罵してやりたくなる。道路は決して灰皿ではないことは、だれでも知っていること。しかし、車中から吸い殻を捨てる奴は、そんな常識さえも知らない大馬鹿者なのだ。そんな輩がいるから、喫煙者は更に更に肩身が狭くなってくる。こんなことはマナー以前の問題。私は目撃したことはないが、車中の吸い殻入れの吸い殻を信号待ちの時、道路に捨て去るものさえいるらしい。ここまで来ると、開いた口がふさがらないという状態になってしまう。本当に喫煙者として考えなくてはならない問題だし、人間としてあるまじき行為だと思う。吸い殻は灰皿や吸い殻入れに、ゴミはゴミ箱にきちんと処理できる世の中にしたい。

 考えてみると、飲んだあとの空き缶や、お菓子の袋を無造作に捨てる人もいる。コンビニエンスストアの前に行くと、ゴミだらけの状態にビックリすることがある。あれは、店員さんが掃除をしているから綺麗なのですね。決して利用者がきちんとゴミをゴミ箱に捨てているからではない。店員さんの掃除とゴミ捨てが交互に繰り返され、イタチごっこのようになっているようだ。店の前には、ゴミ箱があるにも関わらず、平気で飲み食いしたものをその場に置いていってしまう神経。家の中でも同じことをしているのだろうかと、ここでも神経を疑ってしまう。

 かつて、私が子どものころ、社交場であったイッセンマチヤグヮーでは、飲み食いしたものをきちんとしないと、必ず店のおばちゃんやおじちゃんに叱られたものだ。そんなことから、社会のマナーを教わっていったのかもしれない。そう考えると、今の状況というのは、私たち自らが招いたことなのかもしれない。反省しなくては。高速道路のトイレに行くと、ゴミは持ち帰りましょうという貼り紙がされている。行楽や、車中で飲み食いしたゴミを家に持ち帰るのではなく、高速の休憩所にあるゴミ箱に捨てていく人が後を絶たないらしいのだ。ゴミ処理にかかる費用が馬鹿にならないらしい。これも、自分本位の考え方。そういえば、私もコンビニエンスストアのゴミ箱に、車から大きなゴミ袋を持ってきて捨てているのを見たことがある。理解できない。

 最近、海に行くことが少なくなった。何年か前、朝早くビーチへ娘を連れて行ったら、ビーチパーティをしている人たちの残骸があちこちにあって、気持ち悪くなったからだ。お菓子の袋、花火の残骸、ないやら得体のしれないゴミ。吐瀉物、Tシャツまで落ちていた。娘が成長して、泳ぎに行こうと言わなくなったこともあるが、あの光景は忘れられない。もうビーチに行かなくなって何年になるだろう。このような観点から沖縄を見ていくと、ゴミがあちこちに落ちている。いや捨てられている。しかし、それを漫然と見ているだけの私もいる。

 そんな私と同じように考えている方がいれば、是非本書は読むべき。本書には、まさしく沖縄のゴミをなくすには、どのような考えで、どのように実行していけばいいのかを教えてくれる心がある。ここでは深く書きません。本当に美しい沖縄にするのはど~するべきか、私たち自身が考えなければならないと深~く反省させられます。そして、実行している人たちがいることを教えてくれます。でも、考えてみたらゴミって簡単に言うけど、最初からゴミってあるわけないんだよね。最初は私たち人間に便利なように造られたものか、人間のために造られたものばかりなんだよね。ゴミが愛おしく思えてきた。
(06年11月1日)

沖縄のうわさ話

●沖縄のうわさ話
「沖縄のうわさ話」ウエブサイト 管理人tommy編 ボーダーインク刊 四六判 定価1500円+税 

 根っからのアナログ人間である。インターネットの検索もよくわからない。詳しい友人に聴いたら、検索方法が間違っているのだそうだ。といわれても、よくわからなかった。ただ、こんな私でも、毎日友人のブログ(この言葉の意味も最近知った)を見て、県内版元のホームページやいくつかのホームページをチェックしている。何せ、この文章を書いている場所が沖縄文化社さんのホームページなのだから。私も進歩したというべきだろうか。ところが、世の中の進歩というか、思考は私とは全く別のところで動いているらしい。ホームページから誕生した本があるというではないか。

 もちろん、いくら世の中に疎い私でも、これまでに幾つかホームページから生まれた本があるというのは知っている。沖縄でもボーダーインクから何冊か発刊されたという記憶がある。しかし、それらの本に関しても、私は活字を読むだけで、そのホームページまでチェックするわけではなかった。印刷された本のイメージを大切にしたかったからだ(インターネットが先なのだから、こんな考えはおかしいかもしれないが、私にとっては発刊された本が初めての出会いなのだから、それでよかったのだ)。当然、今回も本書を読んだのが先。何故『ゆーれいスポット』が先に掲載されて、ページ数を割いているのか疑問であったが、2章以降の『沖縄の笑い話』『島ことばのうわさ話』『ユタのうわさ話』『オキナワの昔話』『ちょっといい話』は、それぞれ味があって面白かった。書を読んで強く感じたのは、これだけアクセス数が多いのは、管理人のtommy氏が、投稿(投稿でいいんだよね)された文章をきちんと読み込んでいることと、コメントが非常に優しいことだ。

 決して悪意のあることは書いていないし、本当に愛情を持って、このホームページを運営しているという気持ちが伝わってきた。それが、私の一番きらいなオキナワンナショナリズムに陥っていないことにつながるのだと思う。もちろん、たくさんの方々の投稿作品だから、面白い文章や上手い文章があるし、逆にステレオタイプの内容があったりもするが、根底に流れているのは、沖縄のことをもっと知りたい。地面に足のついた情報が欲しいということなのではないかと思った。

 もうひとつ面白く感じたのは、年齢層が広いということ。私の小学校や中学校のころの出来事が昔話にあるというのが不思議な感覚に陥ってしまったが、それでもみんな違和感なく投稿し、読んでいるような気がした。老若男女が年齢を気にすることなく楽しめるインターネットという性格の面白さにつながるのかもしれない。そして、みんな自分探しならぬ「自分自身の沖縄探し」をしているのではないだろうか。自分の住んでいる沖縄ってどんなところ? 私の好きな沖縄はどこ? 沖縄の良さを共有しようよ! もっと沖縄のことを知りたい! なんて感じかな。
 それを温かい目でtommy氏が見つめているのだろう。

 読んだ後、これまでにないパターンの本だと思った。こんな本が発刊されたよと紹介すると、ほとんどの人がこの本の存在を知っていた。また、アクセス数がべらぼうに多いということが、表紙ジャケットに掲載されていたからだ。すると、本には入りきらないほどのジャンルがあって、それぞれに投稿された文章が掲載されていたのであろう。私のようなインターネットの門外漢からすると、非常な驚きだった。恐るべしインターネット。やはり巷間いわれるように、本もインターネットと融合する方向に行くのかもしれない。でも私には、やっぱり本で読んだほうが面白いな。いろいろなことを考えさせられた本であった。
(06年10月10日)